「碍」に関して漢字小委員会に提出していたパブコメ
昨年末に募集された、改定常用漢字表の試案に対する2回目のパブリックコメントにて、私は「碍(がい)」に関して次のような意見を文化審議会国語分科会漢字小委員会にメールで送付していた。(以下一部抜粋)
●「碍」については「障がい者制度改革推進本部」に判断を委ねるべき
先ごろ内閣に設置された「障がい者制度改革推進本部」においては、「障害」の表
記の在り方についても検討を行うとされている。
今回の常用漢字表改定においては、「障碍」への書き換えを可能にすべく「碍」の
字種追加希望がパブリックコメントにて出されているところ、これまでの審議では、
障害者団体の中でもさまざまな意見がありまとまっていない、障害者個人の意見が判
然としない、といった意見が委員から出されていた。
であれば、内閣総理大臣が本部長を務め、障害者や障害者団体が多数参加する予定
の「障がい者制度改革推進本部」に判断を委ねるべきではないか。現政権がそうした
施策を打ち出している以上、漢字小委員会は、この問題を先行して判断する立場には
なく、また、その能力や責任も有していないと考える。
ごく普通の論理的帰結、政治的判断であり、当たり前のことを言ったつもりだったのだが、どうもこのような趣旨のパブコメ提出は私だけだったようだ。今年1月の第38回漢字小委員会では予想外に注目してもらえたようで、どうやらその方向で事は進んでいるようだ。
「障がい者制度改革推進会議」では「障害(者)」表記見直しに消極・反対が優勢
先に一応念押ししておくが、昨年12月に内閣に設置された「障がい者制度改革推進本部」とその下部の「障がい者制度改革推進会議」は、なにも表記の議論をメインとはしていない。障害者制度改革に関する多岐にわたる議論が、毎回4時間も費やす会議にて急ピッチで進められている。たとえば、第2回では、障害や差別の定義といった根本的な議題、「障害」表記と同じ第5回では、教育に関する実質的な議題のほうにより多くの時間を割いている(表記の議題は30分程度)。そしてきわめて切実な雇用の問題は、第3回、第4回と連続して取り上げている。また、次回(第7回)では「情報へのアクセス」が議題の一つとして取り上げられる予定で、IT業界に身を置く者の一人としては特に関心を持っているところである。
そんななか、表記のみに注目するような向きは、当事者にとっておそらく不本意であろう。そのことは重々理解したうえで、論じる議題を選択する自由(当ブログが現時点で「障害」表記を取り上げている自由)は認めていただければと思う。
さて、3月19日に開かれた「障がい者制度改革推進会議」(第5回)では「障害」表記が議題の一つとして取り上げられており、その資料と動画を一通り閲覧した。表記の見直しには消極あるいは反対論が優勢で、どうやら法令等の公用表記はひとまずそのままか(たとえ変えるとしても「障害のある人」か)。表記よりも社会の意識のほうが大事なのでは、他に取り組むべき課題があるのでは、といった意見が目立ち、多数を占めている模様である。表記の選択肢を広げる意味で常用漢字表への「碍」追加を要望することにも消極論が多い模様だが、文化審議会側の日程をにらみつつ、ネットで一般国民を含めて意見募集したうえでもう一度6月初めか5月終わり頃に議論するらしい。
審議の場では、表記について議論する理由として、表記が国民の意識や障害者自身の自覚にも影響する、表記を変えることによって制度や意識などを変えていく意義があるのだ、という趣旨説明があった。しかし、障害者に対する差別をどのようになくすかという目的は共通しているものの、表記から社会を変えていくと考えるのか、表記だけの問題にされたくないと考えるのか、どこまでも平行線なのではないのかという総括的意見が出されていた。その後は反対意見が続き、たとえば手話で意見を述べていた委員からは、手話での「障害」の表現変更を提案したが議論にならなかったという発言(手話)もあった。他の委員からはストレートに「漢字をどうこうというのは、なんかこう・・・じゃあ漢字を変えればいいのかよ」という疑問も提示されていた。各委員が事前に提出した意見の資料を見ても、やはり消極・反対論が多数を占める状況である。
そして審議の終盤で、「障碍(者)」への書き換えを主張している学識経験者の委員が、「碍」の字の成り立ちや、日本が批准する予定の国連の条約における障害の定義の転換に合わせて表記を「障碍」へ変更すべきという自説の趣旨を述べたうえで、「たしかに、その、まあでもよく考えてみれば、あのう、そんなに大きなドラスティックな変更ではないので、こんな、その、変更に大きなエネルギーかけるよりはもっとやるべきことはいっぱいあるだろうということで、しかも障害を持ってる構成員の皆さんがあんまり乗り気でないということであれば、あのう・・・下ろしてもいいと思いますけど」と少々言いにくそうに発言すると、特に「乗り気でない」のあたりで会場から笑いの声が上がっていた。
ただし念のため付言しておくと、この委員(日本社会事業大学教授の佐藤久夫委員)は冷静で理性的な方だと思った。議論の序盤における同委員の発言では、推進会議で表記を決めて明日から一斉に法令等を改正するのではなく、1年や2年の時間をかけて幅広く議論をし、特に、障害当事者がどのような言葉がいいと願っているかを明らかにする、そうしたプロセスが重要だと述べていた。あえて表記を変更するならばその通りだと思うし、そう考えているからこそ、先のような発言につながったのだろう。
議論の最後に推進会議担当室長が、法律など一般社会における表記と、障害当事者が各々の自己をどう表記するかとは別の問題ではないか、後者の選択の幅を広げる意味で、推進会議として常用漢字表への「碍」の追加を文化審議会に要望するかどうかを、ネットで一般国民を含めて意見募集したうえで再度議論するとし、締めくくっていた。
第2回の会議でも論じられていることとして、日本が批准する予定の国連の条約に合わせた「障害」の定義の見直し、つまり、障害は個人ではなく社会の側にあるのだという意識の転換が重要、というところまでが、表記に関係することで合意が得られている事項である。言葉が何を表わすかという議論をさておいて表記の話をするのは順番が逆だろうし、この会議の趣旨としてはそちらのほうが重要だと私も思うのでここに記しておく。
漢字小委員会が取りうる対応の落としどころ
さて、常用漢字表の趣旨からして、法令などの公用表記で今のところ「障碍」を使用しない見込みで、かつ、たとえ少数でも障害当事者の表記の自由に配慮するならば、以下のいずれかが落としどころなのではと考える。
- 「碍」の常用漢字表への追加は見送ったうえで、「障碍(者)」の表記を使用したい一般の個人や法人の自由を妨げるものではない、という注釈なり声明を文化庁なり国語分科会なりが示す。
- 「碍」を常用漢字表に追加したうえで、「障害」表記の変更を改定常用漢字表として求めるものではない、という注釈なり声明を文化庁なり国語分科会なりが示す。
1. について、3月24日に開かれた漢字小委員会(第40回)にて配布された『「「改定常用漢字表」に関する試案」の修正について(案)』に、糸口となりうる文言が追加されていた。
上述のように、改定常用漢字表は一般の社会生活における漢字使用の目安となることを目指すものであるから、表に掲げられた漢字だけを用いて文章を書かなければならないという制限的なものではなく、運用に当たって、個々の事情に応じて適切な考慮を加える余地のあるものである。文脈によって、また、想定される読み手の状況によって、読みにくいと思われるような場合には、表に掲げられている漢字であるか否かを問わず、必要に応じて振り仮名を用いるような配慮をしていくことも考えるべきであろう。
(文化審議会国語分科会漢字小委員会(第40 回)・資料5『「「改定常用漢字表」に関する試案」の修正について(案)』p7 より引用)
目安とは言いつつも漢字制限として一般社会でかなり機能してきた常用漢字表において、「制限的なものではなく」とあえて念押ししている。これはかねてから常用漢字表にあった疑問や批判に応える形で追記されたものであろう。「碍」のみに限った話ではなく、包括的に漢字表の制限色を薄めるというのであれば、より多くの人から歓迎されうる話である。ただし、読めない人はどうするのか、教育の側でどう対応するのかという問題はどうしても残るので、どこまでもバランスの問題となる。「文脈によって~」以下の部分はその点を斟酌(しんしゃく)した記述であろう。
「碍」についても、この記述の延長上で対応可能となる。ただし「障がい者制度改革推進会議」から追加の要望があった場合、政治的配慮として、「障碍(者)」を特に例示した上での注釈なり声明を出す必要はあるのではと考える。(もしかして漢字小委員会はすでに織り込み済み?)
一方、2. を選択して「碍」を常用漢字表に追加した場合、昨年5月の漢字小委員会(第32回)における林副主査の発言が基礎的な考えとなるだろう。
ここのところは共通に理解しておいた方がいいと思うんです。仮に,「しょうがいしゃ」というときにこの「碍」を使えるようにしたとして,この漢字表は「しょうがいしゃ」というときに,これからは「碍」を使ってくださいというところまでは言えない。その字を認めたから,それは新しい漢字表としてそういう文字も使えますよということだけです。だから,習慣的に「害」を,もしどうしても「碍」は使いたくないという団体があったとしても,「碍」を押し付けるわけではないということです。漢字表の文字の出し入れというのはそういう意味であるということは理解をしておく必要があるだろうと思います。
(文化審議会国語分科会漢字小委員会(第32回)議事録 p19 の林副主査の発言を引用)
つまりあくまで表記の選択の幅を広げるだけであって、これは「障がい者制度改革推進会議」から今後提出される可能性がある要望と合致している。こちらの線で行く場合、やはり政治的配慮として、表記の変更を改定常用漢字表として求めるものではないということを、「障害(者)」を特に例示した上での注釈なり声明で示す必要はあるのではと考える。それについてはあくまで「障がい者制度改革推進会議」のほうでお願いしますということである。
「障害(者)」表記の歴史の検証における雑感
当ブログではこれまで、「障害(者)」表記の歴史について、以下のような記事を記載した。
当初思っていた以上に多くのリンクやアクセスを頂き、特に小形克宏さんのブログ「もじのなまえ」で、朝日新聞の記事に対する批判の根拠として当ブログ記事を紹介して頂いたのが大きかった。その後(その影響かどうかは分からないが)、少なくともマスメディアのレベルでは、「障害」は戦後の当て字だとか誤用だとかいった説はあまり見かけなくなった。たとえば、1月25日の読売新聞朝刊「編集手帳」では以下のように簡潔かつ正確に説明している。
戦前は「障害」「障碍」「障がい=石へんに疑」の三つの表記が併用されていた。「障碍物競争」と記された運動会のプログラムをご記憶の年配の方もおられることだろう。もっとも、「障害者」という言葉が定着するのは戦後になってからだ。
(読売新聞「編集手帳」1月25日朝刊より引用)
戦前は「障害」「障碍」「障礙」が混用されていたこと、そして、「しょうがいしゃ」は戦後になってから定着した言葉であること、この2点を要素としてきちんと含んでいる。なお、このコラムでは結論として、『「障害者」の表記の選択の幅を広げる意味で、まずは「碍」を常用漢字に加えたとしても、違和感を抱く人はあまりいないだろう。少なくとも「障がい者」よりはいい。』と述べている。正確に歴史を踏まえた上であれば、それはそれぞれの解釈だし、特に言うことはない。
もう一つついでに、小形さんが批判していた記事の書き手である朝日新聞編集委員・白石明彦さんについて、白川さんの昨日(4月5日)の記事では、さすがにしかるべき修正はされていた。
戦前は障害や障碍、障礙(しょうがい)(礙は碍の本字)が妨げの意味で使われた。戦後、碍は当用漢字にも常用漢字にもならず、障害が定着した。ただ、害は負のイメージが強く、最近は「障がい」を使う自治体が増えてきた。政府の「障がい者制度改革推進本部」も表記を見直し始めている。ちなみに日本の障害者に相当する表記は中国が残疾人、台湾が障礙者、韓国が障碍人などだ。
(白石明彦『「障害者」か「障碍者」か 「碍(がい)」を常用漢字に追加求め意見』朝日新聞4月5日朝刊より引用)
ただし、この時点で「障がい者制度改革推進本部」側の取材はまだしていないのだろうか?それに、「韓国が障碍人」というのは、公用表記をハングルにほぼ全面移行してしまった現在においては不適切で、「장애인」が公式かつ一般的な表記なのでは?国連の条約「Convention on the Rights of Persons with Disabilities」も「장애인권리협약」と表記されているようだが(http://www.un.org/disabilities/documents/natl/korea.doc を参照)。
当該のブログ記事で小形さんも同趣旨のことを述べていることとして、マスメディアや研究者のような、一般の人々から一定の信頼を得ているはずの立場であれば、事実をきちんと確認してから言論を展開すべきだ。俗説があふれかえるなか、プロであるはずの彼らがその社会的責任を果たしていないことに私はたまたま2年前に気づき、アマチュアなりに「障害(者)」表記の歴史を追究していた。それなりの意味はあったのかなと思っている。
歴史の追究、さらに科学的事実の検証は、主張やイデオロギーに左右されるべきではない。そのことをあらためて強調したい。
それはさておき、主要な歴史の記述においてマスメディアの報道も修正されてきた今、「障害」表記のほうの論点は、歴史よりもこれからの話に移っている。そしてそもそも、先に述べたように、障害者に関する課題は多岐にわたっている。表記のことを追いかけているうちに、そのことをつくづく思い知らされたというのが正直な感想である。そういう意味では、表記が社会の注意を喚起するという主張に、私個人の場合は同意せざるを得ないのかもしれない。ただし、やはりまずは意識が大事であり、プロセスが大事なのだと思う。
・・・もうこんな字数、こんな時刻になってしまった。ひとまず今回はこの辺で。
最近のコメント